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2007年 06月 25日
Christian Dior, 60 ans de rêve
クリスチャン・ディオール、夢の60年 VIRGINIE MOUZAT. Publié le 23 juin 2007 ル・フィガロから ラ・メゾン・ド・クチュール(フランスの有名縫製会社の総称)はその驚異的な創作の60年を祝う。 他にこれほどの大河小説があろうか。 « さてさて私が1946年アヴェニュー・モンテーニュ30番地に居を構えたのだが、その魅力的な建物はいくつかの部屋とサロンを持っていて、メゾン・ド・クチュールをそこに置くのにはかなりエレガントで、付属棟は我々85人を十分収容できるものだった。 », と1954年に出版した”クリスチャン ・ディオールと私” の中で書いている。 戦争の翌年、それはラ・メゾン・ガストンの再興を探っていたマルセル・ブサックは、ルシアン・ルロング(自分のメゾンを持つためにピエール・バルマンを離れたばかりの)のところのデザイナーだった男で41歳のこのクチュリエに賭けることを決断する。 この物資欠乏の時代の中、クリスティアン・ディオールはその名前でビジネスマンとなることを確信する。 1947年2月12日10時30分、はちきれそうに満員御礼のグレーのルイ16世風サロンの中で、春夏コレクション、いわゆるニュールックを着た90人のモデルのデフィレ(ショー)が始まった。 戦争のころに何年か流行したザズー(ジャズマニア)の人を小ばかにしたようなしぐさで、ニュールックは身の丈をスカート丈のコルセットで締め付けた。 親方のアシスタントをしていた若きピエール・カルダンが仕事をしていた仕立て屋 Bar(バールという名)が、バスク風のベストの下に大きなスカートで組み合わせた。 モデルのシェリは « 妖精の首、女らしい優美な身、数多いプリーツのスカートで大きな大きな扇を広げ、80メートルの白いファイユ(絹などの横うねの布)... » を着た。 アメリカのプレスやバイヤーは、パリのこの新しい才能にすばやく飛びついたのだ。 30, avenue Montaigne の庭の厩舎は新しいアトリエを造るつもりで9階建ての建物に生まれ変わった。 クリスチャン・ベラール、通称ベベはモデル達を抱え込み, 状況は恐ろしい熱気を持っていた。 ヨーロッパでは大きなダンスホールが活況を呈していた。 社会の動きは花盛りで、クリスチャン・ディオールの香水部門は新しい時代にふさわしい、ミス・ディオールを投入するときだった。 ジョンガリアーノの « ニュー・ニュー・ルック » 1953年, クリスチャン・ディオールはまた別のラインを発表しながらこのニュー・ルックの終焉を宣言した。 1957年、彼の死はモード界を支配していたその影響の期間をあらわしてるのようなものだ。 しかし最大株主のマルセル・ブサックは、彼自ら後継者としようとしたイヴ・サン・ローランとそのまま続けることにする。 1958年に発表された台形ラインの成功は1947年の最初のコレクションで閃光を放ったときから10年過ぎて、もう一度メゾン・ディオール(ディオール社)が卓越していることを確めさせることになった。 1957年11月15日、イヴ・サン・ローランは <ディオールでないディオール >として発表した178着のドレスで、彼の位置を強固なものにした。 彼の2回目のコレクションではクリスチャン・ディオール自身が最後に制作し市場に出した数に比べて26%もその数字を上昇させた。 しかし彼の6回目のシーズンにはすでに <リヴ・ゴーシュ>として世に出てしまっている。 これが最後のディオールでの仕事だった。24歳で、イヴ・サン・ローランは兵役に招集される。 そしてブサックはディオール・コレクションをイギリスの市場に普及させる。 マルク・ボアン、34歳、最初のコレクションの成功はマルセル・ブサックの信頼を得ることになる。 30, avenue Montaigne の運命を握った業界の若き貴公子 ベルナール・アルノー がパリというラベルでまさに芸術的手綱といえる< エトランジェ >を発表した1988年に、ボアンの時代が到来する。 イタリア人、ジャン・フランコ・フェレ、45歳、は彼のミラノのデザイナーブランドを同時期にスタートさせ、彼の最初のコレクションでパリ・オート・クチュールの中央に出現する。 籐の椅子にプリントしたもの、オーガンディーの白い大き目のシャツ、火炎柄のドレスは劇場スタイルを印象付けた。 しかしながら1996年、36歳のジョン・ガリアーノは、ジバンシーにいてロンドンのセント・マーチン・スクールのエスプリの太鼓を鳴らしながらやってきた。 ベルナール・アル7ノーは彼にディオールを任せることになる。 パリの大きな館、アヴェニュー・モンテーニュのサロン・ド・クチュールの装飾を再現した場所で、その若きイギリス人は 仕立て屋・バールを解釈しなおすことを始めた。 1900年ころのコルセットを付けたマサイ族の趣きやシルエットを絡め、< ニュー・ニュー・ルック >にたどり着く。 彼は彼らのオリジンである 光の時代 をミックスする。 50年にもなるそのブランドはニューヨークのメトロポリタン美術館で回顧展を行う。 その開幕式には、ジョン・ガリアーノがディオール用に用意したバイアスのドレスをプリンセス・ダイアナが着る。 その年6月、アヴェニュー・モンテーニュの店が完全にリノベーションして再オープンする。 このイギリス人クリエーターはディオールの化粧品と香水のアート・ディレクターとして総指揮をする。 一方で男性用衣服も同時に動き出す。 2000年には、ディオール男性用プレタポルテで21世紀の男性のシルエットをデザインした 才能優れたエディ・スリマーヌが起用された。 2007年、クリス・ヴァン・アッシュがその後を継いでいる。 この10年の中でメゾン・ディオールが知った驚くべき変容はこの種の世界ではユニークなものだ。 7月2日、ジョン・ガリアーノのオート・クチュールのデフィレの最後に、デザイナーの成功の10年を祝うことになる。 新しい10年の始まりとして。
by georges2412
| 2007-06-25 21:25
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