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2007年 08月 19日
「フランス王国はいわゆる”南ブルゴーニュ”を併合した」
Renée-Paule Guillot ルネーポール・ギヨによるフランス歴史 LEXPRESS.fr du 14/08/2007 1482年、マリー・ド・ブルゴーニュの死で、アラスの協約により、フランス王ルイ11世とハプスブルグのドイツ皇帝マクシミリアンとでブルゴーニュ公国を分割することになる。 はっきり言って14世紀はこの20世紀と共に、我々の2000年の歴史のなかで不幸な世紀であると? 全くそのとおりだ。 まさに<呪われた時期>と言える。 大体15世紀の半ばまでそれは続く。つまり百年戦争の終わりまでだ。 14世紀は西洋のどの国でも一般的に惨めな時代だった。 人々は絶えずおなかを空かせていた。 1315年-16年の大飢饉では殊に都市に食料欠乏が激しく、また一方で騒乱が相次いだ。 田舎は良い年も悪い都市も何とか蓄えることをした。 つまり盗んだり暴行したり脅し取ったり人殺しをしたりの盗賊団のおかげだった。 その上ペストつまり黒死病がヨーロッパを襲い、フランスも1348年にはそれを免れることはできなかった。 そして人口の3分の1を失う。 こうした流れの中で社会の不安定化が生じ、カペー王朝はそれを相続する者も無く滅びる。 そして奇妙なことが起こる。 それはテンプル騎士団を崩壊させたあと、フィリップ・ル・ベルは伝説にあるようにいわゆる<テンプルの呪い><13代までの祟り>を蒙ることになる。 フィリップ・ル・ベルは1314年に死ぬことになる。 そしてその後3人の息子達はそれに続く12年間の中で次々と世を去る。 結果、フランス王位の正統相続者はいなくなる。 ただ一人フィリップ・ル・ベルの娘イザベルのみ。 ところが彼女はその後フランス王位を狙うイギリスのエデュアール2世に嫁ぐ。 しかしフランス人はそれをキッパリと断る。 カペー朝の相続者が無い中、並立する傍系の王を探し始める。 そしてそれがヴァロワだった。 そして Philippe VI de Valois (1293-1350) ヴァロワ朝のフィリップ6世が王位に上がる。 その後を継いで息子の Jean II le Bon (1319-1364) ジャン2世・ル ・ボンだ。 この王朝間の相続争いが百年戦争を生む。 つまりイギリスとフランスの君主政治の覇権への終わりなき闘争だ。 この戦いは極端な暴力行為である。 その前線はどこだったか? 戦線は一つではなく約10箇所くらいある。 つまり戦争はいたる所にあった。 しかし簡単に言えばつまりフランスが占領されていた時代と言える。 イギリス人たちは駐留し、たとえば北の方、今で言うパ・ド・カレーやノルマンディ、一方グイエンヌやガスコーニュ地方だ。 つまりフランスは北と南西を抜き取られたようなものだ。 始めフランスは手痛い敗北の連続だった。 Crécy (1346)クレシー, Calais (1347)カレー, Poitiers (1356)ポワチエ, Azincourt (1415)アザンクールだ。フランスが徐々に解放されていくのは1429年のオルレアンでのジャンヌ・ダルクの奇跡をまたねばならない。 1453年 カレーを除き王国から敵を追い出した。 そのときやっと解放された。 そのころのフランスの地勢上の周辺地域とは? 百年戦争が始まったころ、プロヴァンスやブルターニュはギュイエンヌやガスコーニュ、ロレーヌあるいはブルゴーニュと言った公国に囲まれた、それこそフランス王国は小さなフランスだった。 地方ははっきりと色分けされていて、当然ながらもし封建君主、フランス王に忠誠を誓ったとしても、どの君主もその国の王様であった。 フランス王もそれほど重い位置にあるわけでもなかった。 1477年ころ、ブルゴーニュ公国の最後の君主シャルル・ル・テレメールが亡くなるとフランスの君主制からブルゴーニュの君主として直接統治を始めて、フランスは徐々に多少とも今日我々が知るフランスになってきた。 ブルゴーニュ公国はその独立に執拗に熱心だった・・・。 その公国は1,000年ころから存在した。 しかし実際はヴァロワ王朝の下でブルゴーニュは政治的力を約1世紀(1361-1477) 保った。 フランスの管理者<一族のよい父親>、ジャン2世・ル・ボンは4人の息子にその領地を安定させるよう任せる。 ジャン、ルイ、フィリップにはベリーとアンジューとブルゴーニュを、そして一方末子にはフランス王位をということで、父親が亡くなるとき1364年には王シャルル5世となる。 このように4人の兄弟がフランスを支配する。 しかしここで問題が発生する。 独立に熱心なブルゴーニュ人はフランスの下で暮らすのを拒否した。 公国の役人達は反旗を翻し、しして王を見つけると言った、<あなた達と一緒にやるのは結構だがフランス人になるのはごめんだ><ブルゴーニュ人でいるほうがよい> 。 ジャン2世・ル・ボンは家臣団に気に入られるようにとブルゴーニュ公国の最後の後継者の死から空位になっていた公位を息子のブルゴーニュ公フィリップに譲る。 フィリップ・ル・アルディとは若くてイギリスから父を守ったということからその綽名がついたのだが、ディジョンに入ったのは弱冠20歳のときだった。 しかしディジョンの民衆は彼が偉大な公になるだろうと熱狂したものだ。. で、そうだった? もちろん。 フィリップ・ル・アルディはブルゴーニュ統一をすぐさま始めた。 そのときは二つに分かれていて、一方は公国(今のブルゴーニュ)、もう一方は神聖ローマ帝国のものであった伯領(今のフランシューコンテ)である。 この統一を現実のものとするため、ル・アルディはヨーロッパでもっとも金持ちだったブルゴーニュ伯領主で、フランドル、アルトワ、エノー、ブラバンの持ち主でもあった、マルグリット・ド・フランドルと結婚する。 このときからブルゴーニュは <北ブルゴーニュ><南ブルゴーニュ>といわれるものの統一体となった。 彼女は我々が知るところ以上のものを持っていたことになる。 続いて相続者ル・アルディはその絶頂期にはベルギー、オランダ、ルクセンブルグ、そしてスイスの一部までカバーすることに成功する。 これがブルゴーニュの歴史だ。 だからブラバンあたりに行くとブルゴーヌ魂というか建物などでもそれが伺えるのだ。 そのことがディジョンやボーヌなどへいくと妙にベルギー人やオランダ人が多いという理由だ。 つまり彼らの家にいるようなものだからだ。 フィリップ・ルアルディとマルゲリット・ド・フランドルによる婚儀とはそれほど重要なことだったのでしょうか? まず第一にこの時代での驚くべきこととして幸せな結びつきというのが大事で、夫婦はまじめに敬いあわねばならない。 またこの二人は尋常の人たちではない。 マルゲリットは大婦人であある。 それほど美人ではなかったが少しの狂気と多くの趣味、シャトーを飾るためのたくさん完璧なる衣装をもっていた。 ブルゴーニュの宮廷は特別な輝きを持っていて、フランス君主政治のそれよりも進んでいた。 代々の王のようにフィリップ・ルアルディはその時代の偉大な芸術家やいわゆる彫刻家で ジャン・ド・マルヴィル(フィリップ・フ・アルディの墓 の著者)やクラウス・スルテールのメセナであった。 このすばらしい伝統はアルディのその後の3人の後継者の中に生き続ける。 とりわけロテル・デュー(オスピス・ド) ド・ボーヌ を作らせたフィリップ・ル・ボン (1419-1467) などはそれで、公爵の豪華さの一例として、彼は豪華な祝祭を行い、ボーヌのすべての泉から8日間ぶっつづけに住民のためにワインを噴出させた。 ブルゴーニュ公国とフランス王国との間は、この時代でどのようにつながっていったのか? 始めのうちはシャルル5世と思い出していただきたいが彼の弟であるフィリップ・フ・アルディの連携はうまく行っていた。 しかしシャルル6世の即位から物事はそうはいかなくなる。 狂気は明晰なる瞬間に現れるというが、統治できる状態ではなかった。当然ながらブルゴーニュの叔父達やいとこ達がその位を狙い始める。 こうしてフィリップ・ル・アルディの息子のジャン・サン・プール はブルゴーニュの近代化をさせるようあるまとまった援助金を手に入れた。 . その間王妃イザボ-・ド・バビエールはルイ・ドルレアンとで王である夫をだます。 ところがこのルイ・ドルレアンはブルゴーニュ公の代わりにフランスを統治する振りをする。 そして突然ジャン・さん・プールはパリのど真ん中 リュ・ヴィエイユ・デュ・タンプルでルイ・ドルレアンを暗殺してしまう。この殺人事件はアルマニャック党(王側)とブルゴーニュ人との市民戦争に発展していく。 この戦争は兄弟争いであり先の見えない実に汚いものだった。 コルシカのヴァンデッタのような暴行、女子供殺しである。 ついにジャン・さん8・プールは兄弟の一番下、後のシャルル7世に、モントロー橋の上で殺されてしまう。 そのときから崩壊がひどくなり、和解があったにせよ、フランス家とブルゴーニュ家の喧嘩は収まりがつかない。 そしてブルゴーニュ公国はイギリスとの連盟にまで行ってしまう。 その後115年の威光の中でブルゴーニュ家は1477年まで猛々しく続いた。 その通りだ。 というのは大きな歴史ではあるが、公国最後で4代目のシャルル・ル・テレメールは、どういうわけかなんとしてもロレーヌを獲ろうとと思った。 南北ブルゴーニュの間を確実にするパズルのかけているピースの部分である。 ロレーヌを持ってル・テレメールは1000年の夢を打ちたてようとした。 ライン河は後ろの棘である中間の国、フラマンとブルゴーニュを結びつけるところのロートリンゲンを構築できるだろ。 というのはロレーヌは売るものではないのだ。 ル・テレメールは軍事的にそれを攻撃した。 そしてナンシーの砦のの下の前線で戦死。翌日凍った沼の中で裸で見つかった。 槍で突き刺され顔は崩れ、半分は狼に食われていた。 ルイ11世は1461年の登位以来、ブルゴーニュを支配下に置きたいと。 彼はピカルディー、ブルゴーニュ公国、ブーロネ、アルトワ、そしてエノーを侵略した。 ブルゴーニュのマリ、テレメールの娘を城の天守に幽閉した。 彼女はハプスブルグの皇帝フレデリック3世と連絡をとった。 そして彼女がブルゴーニュを救うためフレデリックの息子マキシミリアンと結婚したいと。 この結びつきによって公国はルイ11世から逃れハプスブルグの勢力範囲に入っていく。 フランス王国にとっては敗北となる。 しかしながら何年か後 (1482), ルイ11世はマキシミリアンと結んだアラスの条約でピカルディーと現在のブルゴーニュを再び取り戻す。 フランスはよって<南ブルゴーニュ>と呼ばれる地域を併合する。 しかし北側の国はその後ハプスブルグの枠の中でベネルクスを形成することになる。 ブルゴーニュは北ー南の二重性を残すことになりそのアイデンティティーは多面的な相貌を持つものになる。 そのことが私がブルゴーニュ贔屓にさせていることで、私は無条件支持者と言える。 私にとってブルゴーニュ地方は総じて何か正の遺産を持っていると思えるのだが、あえて言えばそれはフランスが部分的にも失っていると思える美しさ、エレガンス、貴族性を持ち続けていると思うのです。..
by georges2412
| 2007-08-19 14:12
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